セザンヌの生涯と作品を振り返ります

印象派を代表するアーティストの1人、ポール・セザンヌ(1839年1月19日〜1906年10月23日)。彼はどんなアーティストでどのような背景で作品を制作したのかお伝えしていきます。

【ポール・セザンヌとは?】

セザンヌは南フランス、エクス=アン=プロヴァンスで生まれました。父、ルイ=オーギュストは自ら立ち上げた事業が軌道に乗ったこともあり、生涯あまりお金に苦労することはなかったのですが、父ルイスの想いは事業をセザンヌに継いでもらうことでした。


《1866年 レヴェンマンを読む父親》

【ゾラとの出会い】

セザンヌが画家を目指したきっかけは、小学校で没頭したデッサン遊びでした。13歳の時に中学校に入学し、小説家を目指していたゾラに出会うと、セザンヌは画家、ゾラは小説家になる未来を語り合ったといいます。

しかし、ゾラは母親の仕事の関係でパリへ引っ越すことになり、セザンヌと離れ離れになってしまいます。その後、2人は手紙のやり取りをはじめ、パリで活躍するゾラに刺激を受け、セザンヌもパリでの活躍することを夢見るようになっていきました。

【パリでの活動】

セザンヌが22歳の時、待望のパリで活動する夢が実現します。しかし、南フランスとは異なる環境に順応することができず、1年もたたないうちにエクスに戻りました。その後、父の事業の手伝いをはじめるのですが、画家になりたい夢を捨てきれず仕事には全く身が入りませんでした。そんなセザンヌに父は定額の生活費を支払う約束をして再びパリで活動するチャンスを与えました。

【オルタンスとの出会い】

セザンヌが30歳の時に、19歳のオルタンス・フィケと出会います。彼女は製本屋で働きながらモデルのアルバイトをしていました。2人は同棲をはじめ、3年後には子どもにも恵まれました。最愛の妻である一方、モデルとしてセザンヌのリクエストに応える従順な一面もあったようです。


《1888年〜90年 赤い服を着せたセザンヌ夫人》

【アカデミー・スイスでの活動】

セザンヌは22歳でパリへ出た際、画塾であるアカデミー・スイスに入学しました。塾とはいうものの指導者はおらず各々自由に絵を描いていくスタイルでした。アカデミー・スイスではピサロと出会い、ピサロを通じてモネやルノワール、シスレーといった後の印象主義者との交流がはじまりました。

印象派作品は、太陽光によって変わる色彩を表現した技法をおこなったり、作品のテーマが庶民の仕事風景や娯楽、普通の風景を描いている特徴があります。

セザンヌやピサロ、ドガ、モネ、ルノワールらは保守的なサロンに不満を抱く画家たちと共に初の印象派展を開催しました。セザンヌは「首吊りの家」を出品しましたが、160以上ある作品の中で最も激しく非難されたようです。彼らが追求する新しい美学は「印象主義」と名付けられました。


《1872年 首吊りの家》

【セザンヌ作品の特徴】

セザンヌは父親の財産があったものの派手な生活を好まず、パトロンを持つ事もなくアーティスト活動をおこないました。モデルにも特徴があり、家族や友人、庭師、パン屋など、身近な庶民が対象となることが多かったようです。


《1893年〜1896年 パイプをくわえた男》

セザンヌは制作に時間がかかる事で有名で、モデル泣かせと言われていました。この作品はポーズを取る事に疲れたモデルがほおづえをついている所を描いています。

【セザンヌの晩年】

セザンヌはアトリエで静物画や風景画、肖像画など様々なものを描いていきました。1906年10月15日野外で制作をおこなった帰宅途中に意識を失い、一時は回復しましたが、22日にアパートで亡くなりました。

「絵を描きながら死にたい」と思っていたセザンヌでしたが、思い通りの最期となりました。

《1905年 大水浴図》
セザンヌは亡くなる前まで大水浴図の制作に取り組み、実に11年の歳月がかかったといわれています。この作品は楽園をイメージしているのと同時に様々な姿でくつろぐ女性を描いています。