クロード・モネの生涯と作品について

「光の画家」クロード・モネ

印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(1840年11月14日-1926年12月5日)。

光や風景の動きをいかに絵に表現するかを追求したモネは、「光の画家」と言われておりました。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンと並び印象派を代表する画家の一人です。

生涯多くの絵画を描き、ここまで人を魅了する絵を描くクロード・モネとは、どういう人物だったのでしょうか。彼の人生を描いた作品とともに振り返ってみましょう。

母の死がきっかけに絵画人生の転機に


『ルエルの眺め』1858年

少年時代のモネは、16歳の時母がなくなったことをきっかけに学校を去り、額縁屋の主人の紹介でウジェーヌ・ブータンと知り合った事をきっかけに本格的に画家の道へ進みました。

モネが10代の時に描いた作品。これは当時モネが暮らしていた、ル・アーヴル・郊外の小さな村の背景を描いたものです。若い頃から繊細で巧みな画力を持っていたことがわかります。

パリでサロンへ挑戦


『カミーユ(緑衣の女性)』1866年

青年時代はパリで修業をし、その後、画家たち自らの力でサロン(官展)を目指していました。バジール、ルノワールと共に作品を制作していたこの頃、サロンの受けは悪く、次々と落選。グループ展を開こうと考え始めた時期でした。

モネが年下の恋人を描いた『カミーユ(緑衣の女性)』。はクールべの批判で『草上の昼食』のサロンの審査が見送られた際、代替えとして急遽描いた一枚で、1886年のサロン(官展)に入選した作品です。

この時、数多くの作品をサロンの審査を落選する厳しい時期でした。以後モネは活動の場を個展に移していきます。

モネと日本


『ラ・ジャポネーズ』1875年

19世紀後半のパリでは、日本の美術工芸品にインスピレーションをうける画家が増えていきました。ゴッホが日本の浮世絵に影響をうけたというのは有名な話しですが、モネも例外ではありませんでした。着物を着せたり、団扇、扇子を壁に描いたりするジャポネズリーが流行しました。『ラ・ジャポネーズ』はモネの日本に影響をうけた数少ない作品の1つです。

風景画のような人物を描く


『戸外の人物習作(左向き)』1886年

モネなりに新しく取り組んだ作品で戸外(家の外)の人物を風景画のように描く事。これは、モネがいつかは実現したいと思っていた古くからの夢で長年試行錯誤して実現させました。

モネの象徴「睡蓮」


『睡蓮の池、緑のハーモニー』1899年

モネと言えば睡蓮の連想する人が多いのではないでしょうか。パリを出たモネはいろいろな土地を点々とした後に、フランスのジヴェルニーを訪れこの地で画家人生を全うする事を決め、家を購入し43年間ここで過ごしました。ジヴェルニーでは睡蓮をメインとした多くの絵を亡くなるまで、描き続けました。モネは多くの作品を描いてきたが、生涯の7分の1が睡蓮と言われています。

まとめ

印象を代表する画家であるモネは今となっては誰もが知っていますが、かなりの苦労人だったようです。ただ、その下積み時代があったからこそ、「睡蓮」など人々を魅了する作品を生み出すことが出来たんですね。