ルドンの生涯と作品を振り返ります
【漫画「惡の華」もインスピレーションを受ける】
オディロン・ルドン(1840年-1916年)って知ってますか?モネやルノワールなどの印象派が活躍した同時期にルドンも活動していました。あまり聞きなれない画家かもしれませんが、木炭で描いた黒色の作品で、「黒の画家」とも言われています。
ルドンにインスピレーションを受けている画家や漫画作品もあり、「眼=気球」を見てもらうと、どこか見に覚えがあるのではないでしょうか?漫画「惡の華」(押見修造)の作品の中にも、ルドンが描いたかのような独特な眼のキャラクターが登場しています。
不気味な作品を多く生み出してきたルドンですが、なぜ印象派のような作風にしなかったのか、彼の生涯について触れていきましょう。
「眼=気球」 1878年
【画家としてのスタート、ブレスダンとの出会い】
1840年にワインの産地としても有名なフランスボルドーで生まれました。15歳頃から本格的に絵を学び出し、成長するにつれルドンの絵の才能を見出した両親は美術学校の建築学科を受験させますが失敗してしまいます。その後、絵画教室に入門するも修行のスタイルが合わずに退会してしまいました。
苦難続きのルドンでしたが、24歳の時にブレスダンと出会う事によって、大きな転機を迎えました。ブレスダンを師事とし、技術や考え方を勉強するにつれ黒一色でも光を表現することが出来るという事にルドンは気がつきました。
ロドルフ・ブレスダン 「死の喜劇」 1854年
死をテーマに制作した1枚です。
【画集で木炭画を届けたい】
ルドンが「黒」をテーマに作品を描く事を決意するきっかけになった出来事がありました。それは、30歳の時に普仏戦争がはじまり戦地へ出兵した事です。その経験により「黒」をテーマにした木炭でのドローイングや石版画をスタイルとした作品を描いていくことを決意しました。同時期に活躍していた、印象派のモネやマネのように目に見える現実を直接的に表現するのではなく、ルドンなりに感じ取った現実を表現する作品は、印象派とは真逆の表現方法でしたが、印象派同様に評価されていきました。
ルドンは、評価される為に作品を影響力の強い詩人や美術批評家に送ったり、複数の石版画集を刊行しました。自分の作品を知ってもらう為に色々な方法がある中で、版画の画集にした理由は、様々な人に作品を届けることが出来るからです。この画集にルドンの木灰画や「黒」に対する想いを込めました。暗いイメージがある「黒」だからこそ、ルドンが伝えたい感情を表現出来ると思っていたようです。
画集「夢の中」
ルドン初の画集ですが、発行された部数はあまり多くなく、デビュー作は知人など限られた人の元にしか届けることができませんでした。
「幻視」 1882年
「Ⅱ.発芽」 1897年
いくつもの顔が宇宙空間に浮かんでいる作品。
画集「起源」
9点の作品で構成されたルドン3番目の画集です。
「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」 1883年
「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」 1883年
【黒からの転身】
木灰画で「黒」をテーマに作品を手がけていたルドンですが、50代になった時に色彩のある作品も手がけていくようになりました。「黒」をテーマにしたルドン独自のスタイルは絵画市場の流行など関係なく評価されていたので、市場の変化による影響ではないと思われます。
私生活では、カミーユとの結婚や長男ジャンが生後6ヶ月で亡くなった事、その3年後に次男アリが誕生した事などの大きな出来事があり、これらが影響したのかもしれません。
「アリの肖像」 1898年
【晩年】
ルドンの晩年は色彩画家に転身して活動しました。若い画家たちにも慕われ、色彩画家としても国際的に評価を上げ、生きている間に評価される画家は歴史的にみても一握りなアートの世界では、最後まで順風満帆の画家人生だったのではないでしょうか。しかし、1914年第一次世界大戦が勃発し、次男のアリが戦地に出兵する事になりました。激戦の中、消息がわからなくなったアリの帰還を見る事なくパリの自宅で息を引き取りました。
「日本風の花瓶」 1908
【まとめ】
ただ作品だけ見ているだけだと不気味と感じてしまうルドンの作品ですが、生涯に触れることによって、「黒」に込めた想いや背景を少しはわかっていただけたでしょうか。印象派等が評価されだしていた時代に、独自のスタイルを貫いた事が評価され、現代でも漫画「惡の華」などルドンの魂が受け継がれているのかもしれませんね。
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